生麦 事件。 生麦事件発生地 - 幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡

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その反面、薩英戦争でイギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、一転イギリスから最新の技術を学ぼうと、イギリスと和解していく姿勢になります。

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事件後に出た「ニューヨークタイムズ」紙では、リチャードソンが日本の主要な道路で日本の主要な大名に無礼をしたと、リチャードソンたちを非難しています。 それに対する幕府の返答は、「そういう達しはすでに出しているが、言葉も通じず、習慣も違うことから、我慢して穏便にすませて欲しい」というものだったが、実際にはそのような通達を出していなかった。

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幕府以外にも直接薩摩藩に賠償金を請求したのは、薩摩藩には幕府の力が及んでいないという、イギリスの判断でした。 その時、リチャードソンが道の内側、ボラデイル夫人が外側で2列に並び、その約10メートル後ろにマーシャルとクラークが続いた。 行列が生麦村に差しかかった折り、4人の騎馬のイギリス人と行き会った。

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松陰先生は他の追従をまったく許しません。

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この事件に関わった二人のお墓は以下にあります。 ドラマチックではあるのですが、我々凡人にもその考え方や行動は理解できる範囲かな。 *事件後、久光一行は保土ヶ谷に宿泊しました。

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(文=編集部・2013年6月12日取材). 警護の武士たちも深手を負ったリチャードソンに斬りかかった。 それにしても歴史は興味が尽きないですね。

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それなのに薩摩藩は要求を拒否!!! 頑固だと思われていそうですね・・ とうとうしびれを切らしたイギリスは薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕し、それがきっかけで 薩英戦争が勃発してしまいました。 事件碑を立てたころの黒川氏の様子(鶴見神社の資料より) なお、2012(平成24)年9月に、リチャードソンの一番上の姉の曾孫にあたるマイケル・ウェイス氏が来日して事件碑の場所にも訪れていた。 現代の地図に照らし合わせた事件現場の図(『生麦事件参考館』資料より) 現地の現在の様子を見て行くと イギリス人商人たちは神奈川方面から馬で川崎大師を目指し 薩摩藩の行列は鶴見方面からやって来て この辺りで遭遇した イギリス人商人たちは斬られながらも馬で引き返し 3人は逃げきれたがリチャードソンはここで落馬してとどめを刺され絶命した 事件碑は1883(明治16)年に、鶴見神社の宮司であった黒川荘三(くろかわ・しょうぞう)氏が事件のあった土地を買い取ってリチャードソンが絶命した場所に建てられたが、その近辺が現在は工事中のため、少し離れた場所に仮移転されている。

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それに激高した薩摩藩はイギリス艦隊を砲撃し始め、 薩英戦争が勃発するのです。

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